鬼ヶ島の鬼伽姫
―紅鬼編―


#6 今度は白い鬼が出たでよ


「買えば……いいんじゃないスかね?」
千児が言った。皆の沈痛な面持ちに耐えかねてのことだ。
「どーゆーこと?」
と唐傘が聞いた。さして期待していないどころか、むしろ呆れて投げやりな調子である。
「だからさ、新しいアイスクリーム買ってさ……」
「うんうん」
「『ごめん。いっしょにこれ食べよ』って言ってさ……」
「ほうほう」
「で、『なんかアタシもごめん』みたいな感じになってよ、なんつーか、こう……『お父ちゃーん!』、『むすめー!』みたいな感じで、そのまま仲直り……とゆーかさ……」
しかし、誰も何も言わなかった。千児は気まずくなって、黙った。

保健室に一層重たい空気が漂う中、千児は紅鬼が口を開くのを待った。懸命のフォローを別段面白くもつまらなくもないドラマでも見るような目で皆に眺められたばかり、こちらからまた何か言うのはあまりにも気まずい。譲と大臣も神妙な顔をしている。しかし、7秒待っても紅鬼は口と目を固く閉ざしたままだった。千児は鬼の方をちらちらと見やりつつ、その胸中を思った。
(悔やんでるんだろうな、鬼の父ちゃん。アイス4個ぺろりと平らげちまった自分が、許せねえんだろうな。そりゃそうだ。別に開けなきゃそれまでの冷蔵庫んドアをよ、パタンパタンやってよ、いそいそと紙蓋はがしてよ、うめえうめえとか言いながらヤッコサン、4個もパクついちまったんだもんよぉ。ああ後悔先に立たず、俺何で食っちまったんだろ、何でもうこのアイス売ってねえんだろぉ、なんてよ……。ちと可哀想だぜ!)

さらに7秒が経過。紅鬼は額に深いしわを刻んだまま沈黙していた。こりゃだめだ、と思った千児が無い勇気を絞り出して、
「あ、そーだ、アイスと言えばさ、この間近所の柴犬が……」
などと言いかけたところ、蜘蛛ノ大臣がそっとその肩に手を置いて、首を横に振った。千児はその目を見て、しんみりと頷き返した。
(そうだよな、ケツの人。おれの語彙力じゃ、またつまんねーこと言っちまうよな。つまんねー言葉は、空しいもんな。こいつぁ心持ちの問題だもんよ。難しいよな)
蜘蛛ノ大臣は何かを読み取ったように、
「お気持ちはありがたい。感謝申し上げる」
と案外に優しい口調で言った。千児はまた頷きで応えた。相手が妖怪とは言え、どうやらこんな風に繊細な心の機微が通じ合えることもあるらしいことに、千児は今さらながら感動した。おぬし良い人間だな。おめえこそ良いケツだな。いや蜘蛛だ。そうか蜘蛛か。……互いの目が、何だかそんな風に言い合っているかのようだった。

しかし、その崇高な新しい沈黙を破った者があった。やはり隙山大平である。
「だんまりってのぁやだね。あ〜あ、姫さんも怒っちったし、親父さんも頼りねえし、鬼さんってぇのも案外、デリケートな生きもんなんですなぁ!」
そんなことを言って、口笛をぴゅこぴゅこ吹き鳴らす。とっさに目くじらを立てたのは、ロッカーにもたれ掛かっていた唐傘お化けである。
「まー、ふざけちゃって! うちのボスをバカにしないで頂戴! これでも昔は、この地域じゃ結構大物だったんだから! これでも昔は!」
「そうですかい。そりゃあ失礼」
「大体あんただってね、問題の一部でしょう! 何を人事みたいに口笛なんか吹いちゃってサ、責任感のないオトコってやぁね! やぁね!」
とベッドの縁に跳び乗って嘲るようにくるくる回る。

「おいおい、おれが何をしたよ?」
と唇をとがらせる大平。唐傘はしゅっと閉じてから、非難と怒りを表明するように激しくパタパタと開閉を繰り返し、言った。
「ほんとにもーKYなんだから。うちはね、この建造物の5代前の昼のオーナー、すなわち私立大西学園高校の初代校長と契約して、ハイスクーラーちゃんどもに存在を知られないことを条件に営業してんの。それ自体不平等な約束なんだけどね」
「ほうほう」
「それをあんたは事故とはいえ、『モーテル鬼ヶ島』を知ってしまった。大問題さね。それに、うちのボスと姫とが複雑な家庭事情で揉めてる時にサ、その隣で一人元気に『ケツなおったーうわーい』とか何とか言ってはしゃいじゃってサ、さらには話まで脱線させまくってヨ、そんな男が今さら『何をしたよ』もないもんよ! バカが真横でケツを振って踊ってる横でね、父と娘二人シリアスな話ができると思って?」
「そりゃ難しいけどさ」
「そうよ! 本当にあんたって、シモに走るしか能のないオトコだわね!」

まくしたてられ、大平の男前に、少々むっとした表情が浮かんだ。
「いや、でも、そんな、おれはねぇ、これでも紳士ですよ。猥談とかする場所、つまりケツとか股ぐらとかの話する場所はね、ちゃんと弁える男だよ。人それぞれの感受性に俺の趣味を強いたりはしねえ優しい男だよ。繊細な奴、まじめな奴からはちゃあんと5メートル以上は距離を取ってよ、右にも左にも助平が揃い、オトコの欲望渦巻くキッタネー魔方陣が閉鎖したその内でだけ、おれはエロのセンセーに変身するんでい」
「なあにが魔方陣さね、マジックのマの字も知らんオトコがサ! じゃああの醜態は何さ? 殿を連れて保健室目指して廊下を駆けずってたあたしの耳にはね、はっきり言って、あんたのケツでヒャッハーのバカでかい声しか届いてこんかったわよ!」
「そりゃあアレよ、ケツがケンコーになったばっかだったもんで、こっちもうきうきしちまってたかもしんない! けど、仕方ねえだろ! こちとらこの治り立てのケツが弾みたがってたんでぇ! 見ろや! これがケンコーってやつだ!」
と尻を突き出していい加減な激しいヒップホップを踊り出したところ、再び臀筋を痛め、突っ伏して落涙した。蜘蛛ノ大臣が表情ひとつ変えずに手を捻るように回すと、見えない糸の力なのか、大平の身体は浮遊して空いている奥のベッドのカーテンの向こうに消えた。しばし、と言い残して大臣はカーテンの内に入って行く。三度目の治療が始まるのだろう。それと入れ違いに、さっきからずっと閉まったままだった手前の方のベッドのカーテンがさあっと開かれた。

ベッドに軽く腰掛けながら、驚く皆の衆を見まわして、
「何ていうか。文脈から察するに……」
と切り出したのは、派手な金色に髪を染めている女子生徒である。
「……盗み聞く気はなかったんですが、つまりこういうことですよね。ここで長期間にわたり活動をしている妖怪の組織があったが、人間にその存在を知られてはならなかったと。その名前が『モーテル鬼ヶ島』。そしてつい最近、二三名の人間の学生がそれと接触し、やむをえず組織内に加えられることになったと。一名ないし二名は事故的に。ではもう一名は? いや何かすいません、端から聞いてたら何だか興味深くって」
「な、な、な……」
と頬を震わせる鬼殿。顔を見合わせる千児と袋小路。と、鬼殿はふらふらと二三歩後退し、そのはずみでバケツを踏み潰してバランスを崩し、壁に頭を強くぶつけた。心弱りすぎだろこの鬼、と千児は呆れた。ちらと視線を戻すと、女子生徒はだるそうな目の奥で、不敵に笑っていた。千児が、あっ、このギャルメイクっぽい感じの奴はいつかどこかで見たぞ、と思った直後、袋小路譲が眼鏡の位置を直しつつ、落ち着き払った様子で言った。
「君は2年B組の、祭屋まりも君ではないか」
「そーだけど」

袋小路は眼鏡を光らせて、やんわりと注意した。
「聞いてしまったことは事故なので君の過失ではない。この鬼の方の声が非常に大きかったという問題もある。しかし、君も承知しているように、それがきわめてプライベートな内容である以上、そのように出会い頭に質問され、まして話の整理整頓までされては、いくら鬼とはいえ相手は戸惑ってしまう。そういう時は思いやりが大切なのだから、配慮してあげてくれたまえ。それに、先週も注意しましたが、校章バッジの着用は校則で決められているのですよ」
祭屋まりもは、はあ、とため息をつく。構わず続ける袋小路。
「バッジで身分や所属を示すのは、安全のためでもある。成績優秀な君には、万千児くんのようになる前にぜひ気をつけてもらいたい。服装の乱れから風紀の乱れは始まるのだと」
「うるさい人だなぁ。そんなものに価値があるものかね」
とかったるそうに彼女が答えた時、隙山大平がヒョーと喚きながらカーテンから飛び出し、一瞬だけ変なヒップホップを披露しかけたかと思うと、すぐにやめた。それどころか、その背筋はりりしく伸張し、その指は優美なタッチでネクタイのノットを整えていた。そしてさりげなくベッドの前をぶらついて、まるで今ようやく気づいたような素振りで、
「やあ、祭屋さんじゃないですか。ごきげんよう」
といつになく涼しいバスの声で呼びかけた。

「やあ、隙山君。いつ見ても祭屋さんはおきれいですね、と言いたいのかな」
と祭屋が間延びした声で台詞を先取りする。大平はハッハと笑う。
「これはこれはお見通しでしたか。先ほどは連れの者がうるさくしていたようで、すみませんでした。そんなことより、どこかお体の具合でも悪いのですか。ボクは心配です。同じ学び舎に集う仲間として」
「別に」
と少女は言った。
「かったるかっただけさ。説明一読すればわかる講義がつまんなすぎてね。教科書はなかなかの出来なんだけど、なにぶん教師が悪い。あれに50分の価値はないので寝ることにしたのさ。ところで、『鬼ヶ島』って何なのかな? なんかの出し物?」
一同はビクリとした。大臣などは目許に手を当てて椅子に座り込んだ。大平は笑って言った。
「ハハ、そんなことはつまらぬことです。わざわざあなたの耳をお汚しになるほどのものではありません。今、ボクはあなたの髪型の変化の方が気になっている。まったくあなたのような見目麗しい方には、似合わない髪型がありませんね」

一連の会話を聞きながら、千児はチクショーと思った。おれはこんなヤツをエロのセンセーだとか言って兄貴のように慕っていたのか。そう思ったら自然と涙が出てきた。
「くっ、おれ、先輩だけは裏表のない人間だと信じてたよ」
とこぼす千児の背中を、袋小路譲はやさしくトントンして言った。
「恋は人を狂わせるものだ。大平君を責めてはいけない。僕の推測が正しければ、この恋は先週に始まったばかりだ。今、燃えている真っ盛りなのだ」
「何で知ってんだよ」
謙はふいに窓の向こうを見つめ、思い出すように言った。
「ああ。あれはたしか先週の月曜だった。英語の授業の後、君と隙山君が教室の隅で何か良からぬ下卑た雑談をしていたね」
「下卑た雑談たぁ何だよ。あんときゃ確か、Tyrannosaurus rexの夜の営み、その名もTyrannosaurus sex≠チてのはどんなだったかっていう話をだな……」
「どうでもいい。その時、君はトイレに立ったね。その直後だったんだ。隙山君は廊下に通りすがった彼女を見て、何か呟いたんだ。正確な内容は覚えてはいないが、たしかオープリチーベイベーとか何とか。それで僕は、彼の恋の瞬間がわかった」
「マジっスか。恋の始まりって……そんなわかりやすいんスか」
「そういうものだと僕は思うよ。君は逃げるのに必死で気づかなかったかもしれないが、僕も今日アオガヒメちゃんを見た。事実その時、僕の口は僕の思考を介すことなくこう動いていた。オープリチーベイベーと。……気がつけば、僕は彼女のもとへ引き寄せられて……」

と、そこまで言った時。隣の会話から、
「ハハ! 鬼とかどうでもいいじゃあないですか」
という大平の声が響いた。笑い返す祭屋。しかし、すぐに問い返す。
「しかし、実際、そこに倒れてる全体的に赤めのオッサンは何だろう? 本物の鬼じゃあないのかな? それとも、サーカスのおじさんかな?」
「そんなようなものです」
しまった、と千児は思った。自分たちが世にもつまらない話をしている横で、向こうは何か大変な本筋について話している。「モーテル鬼ヶ島」の経営はごく限られた人間以外にバレてはいけないと紅鬼が言っていた。「ヨロズの嫡男」とやらである千児は例外なのであって、隙山大平は巻き添えの事故。わざわざ何の関係もない祭屋を加えることはない。
「ちょ、ちょ、あっちの会話、何かやばいみたいよ、ねぇ、鬼の父ちゃん!」
と振り返ると、紅鬼は壁に頭を打った格好のまま気絶していた。マジか、と再び千児は思った。いつの間にそんな本格的な頭の打ち方してたんかやアンタ、と。紅鬼は超人ゆえに誰からも心配されず、気づかれもせず、一人伸びていたと言うのか。

紅鬼に気づいていない一人、蜘蛛の大臣が必死で場を取り繕う。
「なるほど。サーカスのおじさんとは、まさに言い得て妙。ご存じの通り、あれはただの仮装なのです。我々どもは、実はクラブ活動創設の相談をしていたんですよ。ここに集まっておりました生徒たちは、我が校に妖怪仮装クラブを作ることを熱望しておりまして、さっきまでその相談をしておりました。そのクラブ名が「鬼ヶ島」なのです」
「でも、なんか変な話もしてたよね。ヒメ様がどうとか」
「それは……設定の凝ったクラブなのです。設定に従って、我らは独特の話法を共有しております。この学校には鬼の姫が住んでいて、それと通信して得た情報を研究として発表しているという具合にね。物語性とユーモア精神を重んじたクラブなのですよ」
「ふーん。で、結局、その全体的に赤めのオッサンの正体は」
「ああ、あれは……ただの近所のオッサンでありまして……別に気にする程のものでは……」
と言いかけた直後、その「オッサン」が首をもたげ、絞り出すような声を出した。その地鳴りのような低い響きは、「み・な・逃・げ・ろ!」と聞こえた。

一同思わず顔を見合わせた。祭屋まりもはにこりと笑った。
直後、鈍色の閃光が走る。唐傘が跳びはね、大臣の姿が白衣を残して消えたその刹那、千児は何か強い力に押し倒されていた。呆然と見開いたその目には、自分に覆い被さって庇う紅鬼の巨大な身体があった。その肩の向こうと見れば、引きちぎられれたベッドの柱が二本、壁に突き刺さっている。あれが閃光の正体かと事態を理解するのに、3秒かかった。
「うへあああ!」
理解と同時に千児は恐怖のあまり緩みきった声で叫んだ。敵襲だ。再び頭上に響く破裂音。擦過音。いちはやく攻勢に転じたのは唐傘であろうか。跳躍する影。それを捕える影。敵は何者か。視界がほとんどないせいで、状況がわからない。

千児を庇う紅鬼は、そのまま蹲るようにして動けずにいる。傷ついているのだ。そのことに思い当たった千児は、泣き叫ぶようにして詫びた。
「うひゃあ! ごめんよ! ごめんよ、赤鬼の父ちゃん! あん時、何かされてたんスね! ビビリで壁に頭パコンしちゃっただけだと思ってたよー! ごめんよー!」
「しびれ針だった!」
と呻くように言う紅鬼の顔色は目に見えて優れなかった。
「迂闊だった……まったく妖気など感じなかったが……あの生徒は……」
「あの生徒?」
と言った直後、紅鬼の体がふわりと注に浮いた。
「ぐあっ」
という呻きとともに宙に浮く巨体。床に叩き付けられる。蹴りざまにその胸に足を置いたまま、人ならざるものの微笑を浮かべているのは、祭屋まりもだった。いや、祭屋まりもという存在こそ偽りだったのだ。偽りの人間の肌が蒸発し、真白な本性の肌に変わっていた。

「ヨロズの……嫡子……」
と呟く鬼殿。千児はその目に、いくつかの言葉を見た。――逃げろ。生き延びろ。わしの娘を治すために生き延びてくれ。おまえは必要だ、ヨロズの嫡子よ。きっとそう言っている。千児はその臆病な頭で、鬼殿はきっとそう言っているんだ、と思った。
(おれに出来ることは……)
と千児は考えた。何もなかった。大平も譲も破壊されたベッドの横に蹲っていた。鋭い爪が萌芽した祭屋まりもの白い手には、閉じた唐傘ががっしと握られていた。
(わりいな、親父さん。おれ、逃げさせてもらいますわ)
尻をずるようにして後退する。と、声がした。
「姫を……」
と唐傘の声である。呼べというのだろうか。それとも……。
「姫を……」
と紅鬼の声が重なる。逃がせというのだろうか。どちらともつかない。

千児の背が保健室のドアに到達した。まりもはこちらを向いた。
「君はただの人間のようだね」
それは涼やかな男性の声だった。
「は、はい……。そうですよ。ただの人間さんでありますよ。へへー」
と今にも裏返りそうな声で答える。
「おまえだけがただの事故による交流ではなかったようだ。しかし、ただの人間がなぜ『鬼ヶ島』の連中と関わっている? 存在を求められている?」
「いやぁ、関わっているも何も、おれ、巻き込まれてただけなんで。へへへ。赤いオッサンとか怖い姫さんとかとも、てぇして親しく関わっちゃあござんせんので……」
相手から答えがない。千児はごくりと唾を飲み込んだ。気まずい沈黙。緊張のために数秒間がやけに長く感じられる。この沈黙の底で、祭屋まりもを名乗っていた鬼は今、どんな思考をめぐらせているのだろうか。素直に逃してくれるだろうか。望みは薄いだろう。しかし、巻き込まれただけというのも、あながち嘘ではない。淡い期待と恐怖とがゆらゆらと揺れる。その間、まともに相手の目を見ることができずに、千児はしばし俯いて震えていた。が、とうとう耐えきれなくなって、ひっそりと腰をもたげるとドアに手をかけ、言った。
「じゃ、そういうことでおれ、帰らせてもらいますわ」
ドアを開きかけた時、鬼が言った。
「止まれ。まだ訊きたいことがある」

千児は震える声に力を込めて叫ぶ。
「いやいやいや! 実はおれ、さっきから小便ガマンしてて、今にも漏れそうなんす! だからもう、尋問とかお喋りとか無理なんす! わかって!」
祭屋まりもを名乗っていたそいつは、千児をじっと見つめ、厳かに言った。
「それは良くない。すぐに行ってきなさい。ここで待ってるから。それが敵であれ、あらゆる個人の排尿の自由は尊重されなければならない」
それを聞くが早いか、千児はドアを開け、兎のごとく走った。
(た、助かった、助かった、いや、まだ助かっちゃいねえ! いつ追ってくるかわからん! いやしかし、良かった! 寛大にも小便に理解のあるヤツで良かった! 尿なんかすっこんじまってるよ! このまま逃げられるとこまで逃げちまえばいい……)
千児はひたすらに走った。廊下をどこまでも走った。

(おれに出来ることは一つしかねえ! 叫ぶんだ! 全力で、『姫様、助けてぇぇぇ、ぷりぃぃぃず!』って叫ぶんだ! そして呼ぶんだ! 頼む、来てくれ! 来てくれ姫様!)
千児は2階・3階と階段を駆け上がり、息を深々と吸い込むと、絶叫した。
「助けてぇぇぇ! 姫様ぁぁぁぁぁ!」
突然の声に何事かと振り返った中年男性があった。体育科教員の山根である。しばし「うぎゃあ」とか「お姫様ぁ」とか「ぷりぃぃず」などとしきりに喚きながら駆けてくる千児をぽかんと見つめていたが、周囲に不審な影も見当たらないので、悪ふざけと思い、厳しい顔で歩み寄り、少年を太い腕でがっしりと掴まえる。
「こら、万! おまえ、うるさいにも程があるぞ!」
「うっせー! おれっち死にたくね−んだよぉぉ!」
「何をわからんことを言っとる!」
「はなせ、はなせよ山根〜! 姫様、助けてくれぇ〜!」

千児が窓に顔を擦りつけるようにして抵抗していると、その隣の窓がガラリと開いて、一人の長身の娘が飛び込んできた。見覚えのある赤と黄色の毛皮の衣。手には大きなレジ袋をぶら下げていた。山根が驚いて手の力を緩めた隙に、千児はそれを振りほどいた。
「あ、こらッ」
と叫ぶ山根の声はしかし、
「おい、おまえ!」
と怒鳴るように山根に呼びかける鬼伽姫の声にかき消された。
「お、お、おまえとは何だね! 君は何者だ!」
「アタシは鬼ヶ島の鬼伽姫! この土地の真の持ち主の娘だ!」
その大柄な身体の後ろに隠れて、万千児も加勢した。
「そうだぞ! 偉いんだぞ、この方は! 山根め、まいったか!」
姫は千児には構わず、憎々しげに山根を睨みながら言った。
「やい、人間! 貴様らが昼間中のうのうとこの土地を独占していやがることには、今だけ目を瞑っておいてやる! その代わり、だ。アタシにおまえらの冷蔵庫を貸せ!」
千児も何だかよくわからないが加勢した。
「やいこら山根、尊い姫様のご命令だぞ! 冷蔵庫出せやコラ!」
山根は口をパクパクさせて言葉にならない何かを言っていた。

一方、尊いという形容に鬼伽姫は大層機嫌をよくした。
「そうかそうか。尊いか」
「そうですねェ、ついでにお美しいですねェ〜」
「そうかそうか。ついでにお美しいか。おい、ヨロズの嫡男。いつかも言ったな。おまえはクズだが良い目をしていると。特別にこれを見せてやろう」
姫はレジ袋を広げた。その中には大量のカップアイス、ソフトクリーム、クッキー型アイスなどがごろごろと詰め込まれている。姫は牙を見せてニタリと笑い、言った。
「どうだ、いいだろう。うらやめ。全部アタシのものだ」
千児は内心じりじりしていた。こうしている間にも、追っ手が来るとも限らない。今はアイスなどを見ている時間ではないのだ、と。鬼ヶ島の妖怪たちはたくさんいる。よもやあの白い肌の鬼一人にやられはしまいと思うが、わからない。そして、父親たちのピンチだと告げたところで、この鬼の娘はどのように反応するかも検討がつかなかった。とりあえず姫の機嫌の回復具合をうかがうべく、また自らその機嫌を取るべく、千児はただ饒舌であった。
「すげえ。『牧場くんラムレーズン』もあるじゃあねえか」
「そうだ」
「『スイカさんソフトBIG』もおわすじゃあねえか」
「そうだ」
「すげえ。すげえよ姫様。さすが鬼伽姫さんだ。おれにゃあ、こんなに素晴らしい大人買いはできねえ。やっぱお育ちのええ方はちがいますやん」

鬼伽姫はさらに機嫌を良くしてニタニタと笑いつつ、山根に言った。
「おい、そこの昼の従業員!」
「な、な、何の話をしている!」
姫は額の角を相手の目に近づけて、礼儀知らずの人間を脅すように、同じ言葉を言い直した。
「おい、そこの昼の従業員……」
「は、は、はいっ」
レジ袋を指し示し、姫は笑顔で言った。
「これ、従業員の間、いや、おまえらが職員室と呼んでいるあの部屋の冷蔵庫にしまっておけ! 食べるなよ! 一個残らずアタシのものだ!」
ここでようやく千児は姫の機嫌が悪くないことを察し、いよいよ大事なことを告げようと口を開きかけたが、姫の大きな声に遮られた。
「そうだな! この袋にアタシの名前を大きく書いておけ! 鬼・伽・姫と!」
千児は今度こそ言おうとしたが、またしても遮られた。
「鬼伽姫というはなァ! 鬼の、お伽話の伽の、お姫様の姫と書くのだ! わかったか! 鬼の、お伽話の伽の、お姫様の……」

「大変なんすよ!」
と千児の声がここにようやく割り込んだ。
「白い鬼が攻めてきたんすよ! 紅鬼さん、しびれ針で動けねえんす!」
「白い……鬼だと……!」
姫は山根にレジ袋を押しつけた形のまま、暗い面持ちで聞き返した。
「そいつは零鬼か!?」
「し、知らねえよォ、女子生徒に化けててさ」
「そいつは何か言っていたか」
「覚えてねえよ、急にドカーンでバコーンだもんよォ」
呆然とする山根を押しのけて、姫は千児に詰め寄った。
「思い出せ! そいつの言葉を」
「だから覚えてねえって、た、たしか、排尿の自由がどうとかって……」
その言葉の意味をしばし考えから、姫はひどく苛立った様子で毒づいた。
「けっ。どうもおまえとは、言語コミュニケーションがうまくいかねえや」

言うが早いか、千児のブレザーの背中の部分を掴み、引きずり倒すようにして窓のへりに跳び乗ると、鬼伽姫は目を閉じて、気の流れに意識を集中させた。千児が振りほどこうともがくのを歯牙にもかけず、数秒後、何かを見定めたという風に言った。
「またドームの方か。皆もそこにいるらしい」
体育館を睨んでいる。姫は手に力を込めた。千児は、まさか、と思ったが、やはりそのようだ。勢いよく跳躍し、窓から飛び出した。
「うぎゃー!」
千児は3階分の高さの落下に恐怖しつつ、また激しい風の中、姫に空中に高く放り上げられるのを感じつつ、さらには地面を蹴って跳躍した姫に胴を抱え直されるのを感じたあたりで、何もかもがどうでもよくなった。逃げられないのだ。おれはどうせ逃げられないのだ。そんな思考もやがてふつりと絶えたようになり、再び地を蹴って上昇した鬼の娘に抱えられたまま、恐ろしい速度で近づいてゆく体育館の屋根をただただ呆然と見ていた。